2021/08/26

そふ











とうの昔に亡くなった祖父の書いた文章を、少し割愛しながらも掲載します。

一緒に暮らしていた祖父は、戦争のことは何も語りませんでした。
数年前に叔母から何かの冊子に掲載された文章のコピーをいただいて
初めて祖父が経験したことを知りました。


長~いので、ご興味がありましたらお読みください!





「終戦のひととき」

思い出したくない過去の一頁だが残しておきたい一頁でもある。
外地で四十年を過ごし、戦後本土(大分県中津・島根県益田
東京は日暮里と世田谷・静岡県函南町)で送日の恩恵に浸っている。

昭和十九年から二十年にかけて、一にも二にも「勝つまでは」の合言葉を
交わしながら、来る日も来る日も警戒警報のサイレンと空襲のプロペラ音に
怯え戦き、防空避難の繰り返しである。

その頃私は、釜山港を見下ろす釜山市内の鉄道官舎に起居し建設改良関係の
業務に携わる一方、軍関係の作戦の末端にいたところ、北方ソ満国境に近い
咸興建設事務所へ転勤を命ぜられ、任地に赴任したのである。
赴任途上の車中で、ソ連軍の挑戦侵攻を聞き、‘後門の狼‘の口へ飛びこんだ思いである。

今考えると、敗戦処理の転職であったように思えるが、当時は分かっていても
口には出せないことである。

兎も角、任地に到着したのであるが、夜のことで灯火管制下の咸興市は
真っ暗がりで一寸先も見えず、漸く出迎えの車に乗り込んで宿舎に足を
のばしたのである。
そこで休んでいたところ、
「所長、大変です。艦砲射撃で清津(北鮮の漁港)市内が攻撃されています」
「そうか、下り列車は何時か」
「今すぐ行けば間に合います」
あたふたと用意して若い職員を連れて一路北へ向かったのである。
日本海に近い路線を走る時には用心するので普通の倍の時間をかけて、
翌々日の午後にようやく羅南駅(清津の一つ手前の駅で二十師団の所在地)に
着いたのである。

駅長に状況を聞くと、清津には一昨夜からソ連兵が上陸して交戦中であるから
列車は進めないということである。

やむなく徒歩にて恐る恐る清津市内に入ってみると敵、味方の死骸が累々と
重なり合って悲惨な情景である。

小生管制下の派出所に行くために、危険を押してここまで来たが、成す術なく
市内は銃撃戦の展開中である。
やむなく引き返したが、その車中で終戦を聞いたのである。

さて咸興事務所所員家族は、終戦後のソ連軍進駐兵に乱暴狼藉をほしいままにされ、
婦女子は頭髪を切り坊主頭となって男を装うさまは目にあまるものである。
国力のありがたかりし数日前を追憶しひそかに涙せしこと限りなし。

かくて日を経るに伴い帰国を要請するも道庁(日本の県庁)の役人並に
ソ連軍司令が言を左右して許可しないのである。
それから間もなくソ連軍の布告が表示されたのである。
いわく”ヤポンスキ(日本人)は現住所を移動することを禁ず。
違反せし者は事の如何を問わず、銃殺に処す” である。

しかし日夜の暴行狼藉は目に余るものがある。がまん忍耐も頂上に達し
布告を認知しながらも、ひそかに列車編成を所員の手で実行したのである。

載炭、給水の準備をして汽笛一声咸興を後に家族は南下したのである。


その後三十八度線あたりで鉄橋のレールが切り離されて運行不可能で
一同下車してソ連軍の指令で逃亡むなしく引き帰ることとなる。


咸興駅に着いた途端に
「指導者は誰か。お前か。これに乗れ」
といわれてサイドカーで刑務所に連行されたのである。それで有無も言わせずに
独房に放り込まれたのである。
あわれ、俺もこれで終わりかと思うと、なんとか一度家族に会ってから死にたいと
考えるようになったのである。
独房に入れられたのだから重罪犯だ、銃殺に間違いないと予想すると、
夕食の麦飯とキムチが目の前にあるが、これをとる気にならないのである。

瞑目してあれこれ走馬灯の如く回想していると、真夜中頃銃声が聞こえた。
後で知ったことだが戦前の警察官の死刑執行とのことである。
一睡もできなかった長い夜であったが、表でガチャガチャと鍵のあく音がして、
扉があいて看守が「出ろ」その合図で彼について行くと、本庁舎の一室に
ソ連軍の将校らしき人物と、終戦時、鉄道局咸興建設事務所長の職務権限を
委譲した現地人その人である。

にっこり笑って、将校に会釈して小生と車上の人になった。
車中の話はこうであった。
「逃亡者であるがこの人は日鮮融和の貢献度が高く、ついこの間
釜山から赴任したばかりで終戦にあった気の毒な人である。
警察関係者ではない。僕(彼)に免じて保釈してほしい。」

と嘆願して来てくれたとのことである。

ああよいことはやっておくべきもの、日鮮融和・人種の差別を
しなかった小生の心が刑からまぬかれたのだと神様に感謝したことである。

かくして第一難は去ったのであったが、次々と災難は降りかかって
きたのである。
やっかいな発疹チフスにかかることなく翌年三月本土上陸。
八か月ぶりに家族と再会し無事を喜び合った次第である。






生前に祖父から聞くことの無かった戦争の話。

その想いを今感じています。




おじいちゃん、私は今この時に、おじいちゃんとお話ししたいよ。

戦争はイヤだよ。







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